足袋の原型は、
この襪を履いていた公家に対して、武家から生まれたのが単皮 (たんび) です。 『タンビ』がのちに、『タビ』になったと言われています。
これは皮製で、まだ指の股はありませんでした。指先が割れるようになったのは、室町時代に入ってからですが、履く時期は9月から翌年の2月までとされ、しかも老中や城主の許可がいりました。
文禄 (1592〜1596) のころの単衣は、男性は小桜模様、女性は紫色のものが履かれています。木綿の足袋は、寛永20年 (1643) ごろに作られていますが、明暦の大火【振袖火事】(注釈1) (1657) で、皮革が暴騰し、単皮が足袋に変わったのです。木綿の足袋には、白の無地の他に、染め分け足袋やうね刺し足袋という、絹糸で刺した足袋もあります。
そのほか、儒子足袋もありましたが、これは贅沢品として、上流階級の間で履かれたものです。そして、紐ではなく、ボタンがけやこはぜがけになっています。また男性は柿色の木綿、女性は金巾や絹物も用いられていました。宝暦 (1751) ごろから夏足袋が作られるようになり、一年中履かれるようになったのです。
足袋のサイズを何文と言っていましたが、これは江戸時代の一文銭の直径を単位とした物で、1文が約2,44cmになります。( 23.5cmで九文八分、28cmで十二文
)
こはぜは明治頃まで2枚でしたが、3枚〜6枚までありますが、現在では4枚こはぜが主流になっています。
注釈1:明暦の大火【振袖火事】
麻布の質屋の娘・梅乃は寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、ふとしたことで死んでしまいました。両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやりました。
当時こういう棺に掛けられた服とか仏が身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。
ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。
ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談。死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。
それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。
住職が読経しながら火中に振袖を投じます。
ところが、折しも強い風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。
そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移りました。
おりしも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。
この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。
この火事で亡くなった人は10万人以上。 世に明暦の大火と呼ばれていますが、この火事の発端から「振袖火事」の異名があります。